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院長のエッセイ


 父のこと(継ぐということ)

 医学部を卒業後、大学病院での研修、国立病院への出張などを経て12年目、
意を決して、父が開業した内科医院を継ぐべく帰ってきたその月に、父はこの世を去りました。72歳でした。
父と一緒に仕事をするという夢はついに叶わぬものとなりました。伴侶を2年前に失った父は、
孤独の上に無理を重ねていたようです。
 
 幸い医院はとぎれずに診療を続けることが出来ました。カルテには今でも父の文字が並び、患者さんは、
大先生はああだった、こんなにお世話になった、と教えてくださいます。毎回、涙ながらに父とのことを
語ってくれる、30年近く通ってきたという90才のおばあちゃん。父の方が「からだを大事にしてね」と
励まされたこともあったそうです。それらのお話を通じて、高校生以来、見たことのない父の診療風景が
目に浮かぶようでした。

 若いとき大病をして長期療養した父は、患者さんの気持ちがよくわかると言っておりました。
「医者は一度病気をした方がいい」と言われます。私にはその経験は乏しいのです。処方にしても、
細かい胃薬をいろいろ取り混ぜて出ていたものを、あまり変わらないだろうと錠剤に変更したりすると、
患者さんから「前の薬に戻してほしい」といわれたこともたびたび。この「さじ加減」が、経験に基づいた職人技
なのだろうと、それからはむしろ先輩の技を盗むようになりました。

 元来が職人技として徒弟制度だった医者の教育です。教科書や、マニュアルには収まり切れぬ微妙な
部分を、先輩の技から盗み、学び経験値を高めていく、それは全ての職人に共通のことなのでしょう。
直接、教わったり、盗んだりすることはできませんでしたが、せめて消え去る前に拾い集める、この3年間
そういう作業をしてきたような気がします。

 医院もスタッフも患者さんも、父が私に残してくれた財産です。父が長年かけてためていった
信頼という貯金を、取り崩すことなくうまくうけついでいくこと。それが私に科せられた仕事、「継ぐ」ということ
なのでしょう。実際の申し送りがない私は、想像力と知力を尽くしてこれに当たるしかありません。

 生前は帰省すると医院のことでよく口げんかになりました。しかし、散乱した書類を整理していて、
私の名前の表札を見つけたときには言葉を失いました。けんかできる相手がいないのは、もっと寂しいものだと
知りました。

 自分の身体には父親と母親の遺伝子が半分ずつ入っています。その身体と、経験から生まれてくる意志。
自分の心のままにやり遂げることが、両親の遺志を継いで、その思いを遂げることになるのだと、
最近は確信できるようになりました。ですから、今の私に寂しさはあっても、迷いはありません。
(平成15年5月秋田魁新報)

これは帰郷して3年目に書いた文章です。それからさらに4年。いろんな人との出会い、出来事があり、
診療所も私も変わってきました。それでも、自分がすばらしいタイミングで、いるべくしてここにいるのだ、
という感覚はどんどん強くなっています。ですから今の自分にはもう、寂しさも迷いもありません。
(平成20年 大北医報200号に追記掲載)



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