エッセイトップへ
院長のエッセイ


 「妻を看取って」〜亡き父の手記

 昨年7月36年連れ添った妻を亡くした。直腸がんだった。息子と相談し本人には告知しなかった。
手術は順調に済んだ。しかし、いずれ療養が必要になったとき、ホスピス的な閑静な環境を作ってやろうと
思った。次女がアメリカに留学し新築した住宅に家内と二人だけの生活になった。日曜日快晴の窓越しに
少年自然の家の山を眺めながら「今が二人にとって一番幸せな時かもしれないね」といった言葉が
今も耳に残っている。

 平穏な生活が3年ほど続いた。息子の結婚式の翌年2月に身体の不調を訴えるようになった。
肝転移がみられた。主治医は腹水がたまってあと半年でしょうか、といわれた。主治医も
病気の話しをするのは気の毒と思ったようで、手術後旅行はなさいましたか、と思い出を作ったかどうか、
そんな意味合いの会話となった。手術後ゴルフもやり、南フランス、モナコやウィーンに旅行し
オペラを観賞したことなどを話した。20日ほどの入院で帰宅し自宅療養に入った。

 2月というと夕方6時頃には暗くなる。仕事を終えて自宅に帰るとき、車から一心院の墓地が
ライトで照らされると、あぁ家内もそう長い月日を待たずにここに眠るようになるのかと思うと
寂しさにおそわれ涙がにじんできた。病状が進み本人もいろいろ気を病み始めたので、
腸の手術ががんであったこと、今はその転移であることを告知した。家内は初めから知らされても
私なら大丈夫だったのにと静かにいった。どんな気持ちで聞いたかと思うと憐れでならなかった。
しかし気丈な女性だったので次女を嫁にやり結婚式には出られなかったが、母親としての役目を果たし
巣立ちを祝った。

 日中は家政婦の世話を受け、夕食は私が取り揃えた。一皿出す毎にすみませんといった。
いちいち、すみませんというなと怒鳴ったこともあったが、なにもいわず淋しそうな顔をした。私も切なかった。
日中調子がよく私が帰るまでの夕方が不安のようであった。
ある晩、帰宅したらベッドで大声をあげて泣いていた。どうしたと言って痩せ細った腕をさすってやり
手を握って頬ずりしてやった。淋しさに耐えられなかったのだろうと思う。

 それからはできるだけ家内の傍にいるように心がけ、若かりしデート時代の楽しかったことや、
ロマンチック街道、ベネチアそしてバルセロナなど旅行の思い出話をして、我々も輝いた時があったね、
と語りかけてやった。本人も国立劇場で踊ったし、他者(ひと)の3倍のスピードで駆けてきたから、
この辺で人生の幕をおろせということでしょうと言って、自らを慰める様でもあった。

 病状が進み点滴と酸素吸入で維持する状態となった。次第に意識が朦朧となってきた。
孫がおばあちゃんお休みなさいと声をかけると、ニコッと笑って痩せた腕を少し上げ弱々しげに手を振った。
私がおばあちゃんが笑った・笑ったと大声を出した。涙が止まらなかった。そのあと意識はなくなった。
最後の意思表現が笑顔であったことは私にとっても救いであった。
半年と言われたが一年半も頑張ってくれた。息子娘嫁とに見護られて静かに息を引き取った。
華やかな雰囲気をもち人々に愛され三人の子供を立派に育て食卓で私に明るい話術で愉しませてくれた
女(ひと)の最期だった。

 だびに付した晩、生前痩せた家内を支えて歩いた廊下に来た時、薄い透明な水様の膜を透した
向こう側に家内の姿が見えた。「おォ、ママ」と声をかけたらスーッと消えた。
最後のお別れに来たのだと思った。

 人生無常、逆縁ほどつらい別れはない、寂寥感に襲われ家内が愛した京都嵯峨野に庵を結んで
読経三昧の余生を送りたいものだと思う日もある。

 今はただ家内がいとおしくてならない。
(平成11年 大北医報掲載)



トップへ



前へ