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院長のエッセイ


 こころのバリアフリー

 何かの折りにたびたび思い出す、忘れ得ぬ患者さんがいらっしゃいます。

 私が国立病院にいたときに転院されてきた40代の主婦Bさんもその一人です。
Bさんは市販の感冒薬の副作用でやけどに似た皮膚症状になるスティーヴンス・ジョンソン症候群と、
薬剤による肝障害の患者さんでした。皮膚のただれや黄疸は重症でしたが、Bさんは明るく、
前向きに治療に専念しておられました。二人の小さなお子さんと旦那さんが、遠いながらも
しばしば見舞いに来ていました。

 改善のないまま治療は長期化し、ステロイドや血漿交換療法という強力な治療まで行いましたが、
Bさんの容態は次第に悪化しました。旦那さんにはお会いするたびに、治療の効果がみられず、
予断を許さないことをお話ししました。そうこうするうちに、Bさんは肝不全に陥り肺炎を合併し、
人工呼吸器が装着されました。血圧が低下してきた日、ご家族を呼んで、非常に危険な状態であると
お話ししました。昇圧剤にも反応しなくなり、翌朝、Bさんは息を引き取りました。

 かけつけたご家族に経過をご説明する中で、旦那さんはきっぱりと「こんなに悪いなんて、
先生は言わなかった」「もっとはっきり言ってもらわんと、わからんじゃないか!」・・言葉を失いました。

 本人やご家族への説明に医学用語はなるべく使わない、私はそう努めてきたつもりでした。
それまでの経験から、昔ながらの表現をあえて使う事も多かった。「今晩が峠です」「危篤状態です、
今の内にご親族を呼んでください」など。また、お年寄りのご家族には「心肺停止です」ではなく
「ご臨終です」と。それでも、伝わらないことがある、それを思い知らされました。

 患者さんの多くは話そうと思っていることの半分もいえないとか、逆に医者の話しの8割が
患者さんに伝われば良いほうだ、などということを耳にします。なぜそんなことになってしまうのでしょうか?
時間が足りないだけなのでしょうか?

 ご家族には最悪の状況を含めてあらゆる可能性をお話しするのが常ですが、「希望を捨てないで
頑張りたい」という意志を伝えたい気持ちも根底にあります。そんな中で患者さん側はどうしても
良い材料に片寄って聞いてしまうのでしょうか。

 医療過誤や訴訟の陰には医療側と患者側の意思の疎通の不足があげられます。確かにその通りだと
思います。ただ、これは医療に限ったことではありません。人と人とのコミュニケーションの困難という、
社会が抱えてきた大きな問題。それが、医療の現場では致命的な結果を招きうる。
そういう特殊な事情の中で、医師は病気の治療とともに、他人とのコミュニケーションという
大きな課題に向き合っているといえます。

 施設のバリアフリーは徐々に進められています。Bさんの笑顔を思い出すたびに「こころのバリアフリー」
を目指さねばと、気持ちを新たにする毎日なのです。  
(平成15年12月 秋田魁新報「聴診器」)



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