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院長のエッセイ


 病気と自己責任〜自立と相互依存

 息子さんに先立たれて、ひとりぐらしのおばあちゃん。落ち着かないので安定剤の注射をして欲しいという。
それだけではちょっと淋しい気がして、「親戚やご近所の人と話しをすれば少し気が紛れることもあるでしょう」
と言うと「町の人とは話が合わないし、人の世話になりたくない」という。
「自分のことは自分で何でもやってきたし、これからも出来ますから。」

 精神的な弱みをさらしたり、うち明けたりすることをさける風潮。涙を見せ、腹を割ってはなす事は
ひどく特殊なことになったようです。

 「人に頼るのは弱い人間のすることだ。人は強くあらねばならない。それが自立している生き方だ」。

 「7つの習慣」の著者スティーブン・R. コヴィーは「依存→自立→相互依存」が、人間の成長過程の
プロセスであると言っています。もともと人生や社会は相互依存的なものであり、
精神的・肉体的に自立した人間が、社会や地域のコミュニティーのためにおのおの知恵と力を出して
助け合って暮らしていくかたちが最終的なあり方だと。それに対して自立を最善の形態ととらえる
価値観の中では、孤独と無力感にとらわれてしまうような気がします。

 いま、グループホームが急成長しています。家事は出来るが一人では不安があるという方が
数人で生活する。共同生活を始めると痴呆も改善することがあります。
老人ホームという依存型の施設から、相互依存的な形への回帰を示した例とはいえないでしょうか。

 自立で気になることがあります。かつて成人病といわれた高血圧、糖尿病、動脈硬化症
(脳梗塞・心筋梗塞など)や癌までが、予防医学の観点から「生活習慣病」と呼び変えられるようになり、
だいぶ定着してきました。
健康増進法には(国民の責務)として「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、
生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。」とあります。

 もちろんこの概念に異を唱える気は全くありません。ただ健康増進が責務ならば、病気になったものは
それを怠ったのだと言いたい気持ちが見え隠れします。そして今はやりの「自己責任」という言葉で責められる
のでしょうか?「自己管理が出来なくて病気になったのだから自分の責任じゃないか」と。

 正直にいえば、これまで自分も患者さんに対して懲罰的な気持ちを持たなかったと言えば嘘になります。
糖尿の患者さんに「食べ過ぎだから」。肺ガンの方に「タバコやめないから」。肝硬変になった人に
「お酒の飲み過ぎ」といって、責めたくなる気持ちがなかっただろうか。

 しかしそれは思い上がった考え方でした。人間はある面弱い存在です。今は若くて強いかもしれないが、
あるとき病気になったりするし、いつかはかならず老いる。

 常に自分一人で生きてきたわけでもないし生きてはいけない。それは弱くて情けないことではなく、
とても素晴らしい人間のあり方だと思います。もともと「人・間(ひと・あいだ)」なのですから。
そして医者はいつも弱くてもろい患者さんの側に立たねばならぬと、自戒を込めて思います。
病気も人生の貴重な経験として受容できるところまで、自分もさらに修行を続けていきたいと思うのです。
(平成16年5月秋 田魁新報「聴診器」一部改変)



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