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院長のエッセイ


 まちを一瞬で元気にする方法

まちづくり、まちを元気に、という言葉は、よく耳にしますが、私は何か違和感があります。
裏を返せば「まちに元気がない、いまのままではダメだ、今のあなたではダメなのだ」というメッセージを
流し続けているのと同等だからです。はっぱ掛けているようでネガティブなマインドコントロールにもなりえます。

第一、元気なまちっていったいなんだろう?
お金があって人口が多くてお店がいっぱいあっていつもイベントがあること?じゃあ都会が理想なのか?
ここをしっかりと見つめるところから始めずに、まちづくり、という言葉からスタートすると、
そこが思考停止に陥ってしまいかねないのです。

大館に戻ってきた当初はデパートがない遊び場がない○○がない、という不満からのネガティブな見方で、
○○ができれば楽しい、元気になる、シアワセなハズだ。という発想。しかしこれはゴールのないレース。
この気持ちのままであれば、たとえどの町に行っても満足できなかったでしょう。

たとえば、20年前にかかれた医療問題の本を読んで、愕然とすることがあります。
そこで取り上げられているのは、ほとんど現在と同じ問題なのです。地域振興の本も同様です。
問題を探し出して、それを変えよう正解を出そうとする立場にいる限り、これは終わらない作業なのです
(私が個別の問題、対策を取り上げないのも同様の理由です)。この気づきがまず第一歩です。

同じ県民同士で足の引っ張り合いをしないことも大事です。自らは動かずに、人の企画や発想を批判する
ことはたやすい。同じ県民、国民として、敵などいないとすれば、すべてを温かく見守る、そして共感したら
応援し、手を貸してみる。それが草の根からのまちのありようと思います。

田んぼを吹くそよ風に吹かれ青空を見上げて幸せな気分を味わう、そんな基本線にたって眺めれば、
ここ秋田はすでに桃源郷です。感傷や無理な前向き思考でもなく、今素直にそう感じます。

「病気になって健康のありがたみを知る」同じく、目の前にふんだんにあるはずの地元の魅力には、
普段は見過ごしてしまいなかなか気がつかないものです。
もちろん、何かを作り企画すること、それが不要だと言っているのではありません。
このありがたみを共感する人々がどんどん増えていくこと
(何も言わず気づきを共有している人ももちろんたくさんいるわけですが)。

人を変えるのは容易ではありませんが、自分が元気でいてそれを他の人が感じ取って共振し、
エネルギーが増幅する。これが元気なまち、ということではないでしょうか。
そうすれば、秋田に来た人は、どうしてみんなこんなに幸せそうなのだろう?と不思議がることでしょう。

不変な秋田の魅力・宝があり、それが人を通して光を放つのだとすれば、
「秋田が再び光彩を放つ」ためには、いまくすんだように見える(くすむとは、
中央志向でパターン化された情報などでバイアスがかかった見方ということ)
そのレンズを磨きなおすという作業は、地味ですが、本質的であり、かつ一瞬でできる気づきなのです。
ここでのメディアの役割は非常に大きいです。

そういう観点からすれば、箱ものなどなくても、いますでにここにある秋田の魅力を、気づかせてくれる機会、
すでに気づいている人とふれあうチャンスこそが「まちづくりの運動」になるのでしょう。
そしてこのような活動は、日に日に増えていると感じています。 

あれっ、結局、ひとめぐりしたようですね。でも輪は確実に大きくなっています。
(H22、秋田魁新報のアンケートに答えて)

健康と同じく目の前にふんだんにある地元の魅力に普段はあまり気づかない。
その有難みに感謝し発信する人々が共振し合いエネルギーが増幅するのが元気な街。
植え付けられてきた中央志向という「ゆがみ」を取り除いて足元を見直すことは、本質的で一瞬にできる
気づきだ。今ここにある魅力に気づかせてくれる機会、気づいている人々と触れ合う場こそが
「まちづくり運動」になり、そんな活動は確実に増えている。
(掲載されたサマリー)



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